医者の仕事

ある地方での話である。私は仕事の性質上、地方都市に数か月滞在して訪問営業活動を行っている。

私が担当させてもらった職業は医者だった。

3階建てのビルにテナントとして入居しているロケーションとしては至って何の変哲もない街のお医者さんである。

しかし医療内容は少々複雑であり、凡人には縁のあまりない診療科目である。

簡単に言うと現代病、すなわちメンタル系の患者を漢方薬の処方や生活習慣を変えることによって自立へとサポートするのだ。

単純思考のアポなし訪問

単純思考のアポなし訪問

私は普通の病院と思い込んで初回はアポイントなしで午後の診療が終わる間際に訪問をした。

患者もそれほど多くなく通常であれば10分も待てば面会できるだろうと安易に考えていた。

しかし、この行動がのちに裏目にでるとは考えられなかった。

受付で訪問の目的を告げ、待合室のソファーに座って2時間が過ぎたのだ…!

患者も周りにいなくなり看護師さんも休憩に入ってしまって待合室には誰もいなくなってしまった。

壁に掛けてある時計の秒針の”カチコチ”という音だけが静かな空間に鳴り響いている。

私は忘れてしまったのではないのかと不安になると同時におなかの鳴る音にも耐えなければならなかった。

今日のところは面会は出来ないとあきらめかけていた時、”ガチャ”とドアの開く音が聞こえた。

「忘れられていなかったんだ…!」と安堵した記憶は今でも鮮明に覚えている。

遠くから聞こえる廊下を歩く音が次第に近づいてきた。

私は2時間以上座っていた重い腰を上げ、挨拶をしようと立ち上がって足音のする方向を見守っていた。

間もなくして、白衣を身にまとった医者が私の横を通り過ぎていった。過ぎていった…私の顔を見ることもなく通過した…。

しかし私はその人物の風貌と表情を拝見して待たされた2時間は無駄では無かったと確信した。

その医者は怒っていたのである。

言葉には出していないが、紛れもなく通り過ぎるまでの足音、背中に怒りが感じ取れた。

これは一種の営業の勘でもあり、試されていると予感めいた何とも形容しがたい法則が私の頭をよぎったのである。

表現しにくい不思議な感情

営業マンの表現しにくい不思議な感情

私は不思議と待たされた事と先方の無礼な態度には腹が立たなかった。

むしろ「一本取った!」と無性に胸が高鳴ったのだ。

念のため言っておくが私はサドでもなければ変態でもない、至ってノーマルな思考回路を持っている営業マンだと思っている…(笑)

その日は仕方がないので一見しただけで帰社した。

何の成果もなく、生産性もない一日であった。

寝床に入って今日あった出来事を思い返して私は思わずニヤリと笑ってしまった。

私はあの先生との神経戦に勝ったのだ!間もなくして深い眠りについたことは想像に難くないだろう。

勝負を賭けた再訪問

営業マンの勝負を賭けた再訪問

後日改めて今度はアポイントをしっかりとり、その病院に再訪問した。

時間通りに訪問すると数分も経たずに応接室に通された。前回とは正反対の展開である。

間もなくして依然あったことのある医者が私の目の前に現れた。

先日とは違い薄っすらと笑みを浮かべている。

私は挨拶をした後に先日の非礼を詫びた。

私

先日はアポイントもなく突然訪問してしまい誠に申し訳ございませんでした。

つい通常の病院で面会している時間に独善的に訪問してしまいました。深く反省しております。

先方は間を空けてこう言った。

医者医者

理解してくれましたか。

私は決して貴方のことを嫌ってそういう態度をとったのではありません。

私の仕事は、心の病を持った患者が来院してくる。

中には人に見られるだけでストレスを感じ、自ら命を絶ってしまうほどの患者もいる。

私はただ相槌を打つことしかできなかった。何も返す言葉がなく、先方の話を聞き続けた。

医者医者

ここに来院してくる患者はデリケートであり、我々には想像もつかない位に悩み果てた末に来る人が多い。

だから、普通の人がドアを開けて入ってくる事に恐怖心と羞恥心を持っているから怯えてしまう。

最悪、パニックになる人もいる。

私は意図を理解していたが、ここまで患者の事を考えている姿に感激を覚えた。

反面、自分の考えの浅さも痛感させられた。

その後、商談はスムーズに進みお互いが納得できるような契約となった。

医者医者

また来年も貴方が担当になって下さいね!

帰り際に先生はこのように言ってくれたが、正直私の心は複雑だった。

営業マンは我を持て

営業マンは我を持つべし

私は以前述べた述べた様に「神経戦に勝った!」などという自分中心の小さな考えしか持っていなかったのだ。

後に振り返ってみてメンタル系の患者の前に突然現れ、観察してしまったことが悪かったのかと気付いた位の考えしか思いつかなかった。

しかし、先生は私の非礼に対して言葉にして怒るのではなく、向こう側にいる患者を守るために行った行動なのだ。

医者という職業は、『肉体労働』『休みが少ない』『睡眠もまともにとれない』など何を楽しみして生きているのか全く分からなかった。

しかし、今回の出来事で医者という職業に対してのイメージががらりと変わった。

私は営業の奥深さと相手を慮る心の器量、人間性の研鑽など日々が修行であり、物事の本質を見る目を養う機会を与えてくれた先生に感謝の念を今も抱いている。